My name is…
HatsumiNakano.
私が仕事をしていく上で大切にしている想いは、
「いつも、いつまでも、お客さまにとっての最良のパートナーであれ。」です。
常にお客さまに寄り添い、お客さまの意向や夢を聞き、
その実現に向けて一緒に考え進めていく。
お客さまの信頼とご要望に応えられるよう日々努力し続けたいと思います。
新しい情報をつねに取り入れ学び、最適なご提案をさせていただきます。
すべてはお客さまが安心で幸せな毎日を過ごしていただくために。
企業さまが成長・発展していくために。
お客さまの笑顔が私の活力です。
強みは0からのスタート!
法人も個人も保険の保障の大切さはもちろん、全体最適を実現するために、360度の視点からリスクを減らし、夢を実現していくいくご提案。加えて保険の仕組み、税制を上手く活用していただきたい。お客さまの生涯を通して寄り添い続け、お客さまの潜在ニーズを健在化し、一緒に考え、お客さまのお役に立つことが何よりの社会貢献だと思っています。
- Hatsumi Nakano
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History.
History of Hatsune Nakano
笑門来福、ここにあり。
優秀な福岡の少女。
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1974年、福岡生まれ。決して裕福ではないけれど、まさか自分の環境が貧しかったとは何ひとつ感じることなく、普通の家庭ですこやかに育ってきたつもりでした。 ところがある日、気持ちのスイッチが大きく変わった瞬間があったのです。通っていた学校の三者懇談会の席でのことでした。母が当時の担任の先生から、私を「有名私立中学に通わせてはどうか」と提案してくれたのです。誰も知らないことなので、ここは敢えてイバって 言い放っちゃいますが、子どもの頃の私は成績優秀でした。いやマジで、かなり良かった。 勉強が大好きだったんです。ところが、母は先生の提案にこう返したのです。「ウチの子は 私立校に通わせる余裕なんてまったくないし、公立高校の学費を出すことさえ難しい」と。 え?それホントにそうなの?
学費のための新聞配達。
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その言葉が脳裏に焼き付いて、約半世紀を生きた今も鮮明な記憶として残っています。あのときを境に、私は親に頼ることをやめました。金銭的負担を親にかけないように暮らしていこう。そう思い立った私は、新聞奨学生として毎朝新聞配達をしながら学費を稼ぐことにしたのです。有名私立校なんて行かなくたって東大に行くチャンスまでなくなったわけじゃありませんからね。努力次第で何でも叶うはずだ!と、楽観的でした。勉強と同時にスポーツも好きだった私は、部活動だってガマンしたくなかった。陸上部ならユニフォームとシューズさえあればできるんです。ちゃんと働いて稼いでお目当てのかっこいいシューズを買い揃えましたよ。それが苦労とは思っていませんから、すべては順風満帆。楽しく過ごしていました。初めての恋もして….。一緒に図書館で勉強するというピュアな恋。青春街道まっしぐらです。
盲目すぎた恋の無謀。
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ある日、大好きだったカレシが大掛かりな家出をすると打ち明けてきたのです。思い起こせば、この出来事によって私の人生の舵は、少しだけ冒険方面に切り替わりました。優等生一家で育ったカレシは「デキの良い兄弟と比べられたくない!オレはもっと自由に生きたい!」と、尾崎豊の歌詞のような世界観の主張をしていました。うぶな私は、この無謀な愚行をステキな夢だと勘違いしましたよ。すぐに一緒についていく決心をして、本当に家を出てしまったのです。バカすぎ。なんと浅はかだったのでしょう。大学生のアルバイトだと装って住み込みで働ける工場を探し当て、本当に数週間働いてみたものの、あえなく補導されました。こっぴどく叱られ、高校は停学処分。狙っていた大学推薦入学も消え果てて….。さあどうする?
新婚ハッピーな愛知県。
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高校卒業後、進学をあきらめて自動車メーカーに就職することになったカレシの元を追いかけて、私は愛知県豊田市に引っ越してきました。新天地での生活です。若かったからなのか、もともとノーテンキなのか、不安は一切ありませんでした。素晴らしい人生がこれから待っていると信じていたのです。カレシはダンナになり、ダンナはパパになり。つまり私はママになりました。子どもも授かって私は大いに幸せな主婦を味わっていました。その様子が少しずつ変わってきたのは二人目の子どもが生まれた頃からです。
失われた円満生活。
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中学時代からとても長い間お付き合いをしてきた元夫の悪口を言うつもりはありません。そ れまでずっと一途に過ごして、それは永遠に続くものだと思っていました。が、大手企業での賑やかな交流関係によって夫の視点は、だんだん私や子どもたちから離れていってしまっ たのです。そして24歳の時、私の家庭は崩壊しました。そうなると、私は愛知県で暮らし続 ける意味はなく…。故郷の福岡に戻ることにしました。が、何の保障もありません。もちろ ん、そんなことは知ってはいました。でも他に行くアテがなかったのです。
頭に浮かんだ生保の勧誘。
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これからどうする?とアレコレ考え、ふと浮かんできたのが、生命保険会社の女性の姿でした。その人はいつも会社のお昼休みに現れ、私に声をかけてくれたことがありました。ハッキリ言って大昔の私は、保険営業という職にあまり良いイメージを持っていなかった。あの手この手の口八丁で勧誘するだけして、儲けるための組織で、その職場は殺伐としているに違いないという勝手なイメージで誤解をしていました。そんな私がなぜ思い出したのかといえば、誤解しているような予感がしたからです。
先入観が消えた記憶。
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ハッピーだった主婦時代、保険会社の営業レディから「この仕事をやってみない?」と声を かけられたことがありました。営業職には偏見があった私も、人を疑うという能力は欠如し ていました。言われるまま保険会社のオフィスに招かれて伺った時「あれ?思ったよりギスギスしてないし、明るい人たちだし、雰囲気良さげかも」と感じたのです。将来について思 いあぐねている時、その記憶がよみがえりました。職場としては悪くないかも。…というか、それしか望みをつなぐ道がわからなかった、というのが正直なところです。
日本縦断夜行運転親子旅。
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そんな薄い記憶だけを頼りに、私は心を固めました。二人の子どもたちに不自由なく過ごさせてあげるには、あの時に声をかけてくれた保険会社で働くしかない!と。そう決意した私は、大した家財道具も持たず、中古で買ったダイハツ・ミラに二人の子どもを乗せて、福岡から豊田市までの距離を運転していたのです。これでも私としては大マジメに考えたのですが、もちろん、当時の私はキャリアプランなんて一切描いていません。大切にしたかったのは、ただただ子どもとの暮らしのことだけでした。私は再び愛知県に戻ってアパートを見つけました。離婚した時、もうこの町で暮らすことも ないだろうと思って去ったのですが、ビックリするほどすぐに戻ってきた私の行動。ヘンですか?バラ色の夢を描いていたわけじゃないんです。でも二人の我が子の幸せだけは絶対に守りたかった。親子二代に渡って新聞配達をしながら高校に通わせる…なんてことはさせ たくなかった。その強い思いがあれば、きっと私はハッピーになれるんだ!と。それしか考 えていませんでした。
1999、無心の生保デビュー。
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こうして私は第一生命保険で営業レディとしてのキャリアをスタートさせることになったのです。とはいえ、ほぼ縁もゆかりもない愛知県ですから、営業を持ちかけるような親類縁者はいません。コネはゼロ。私のことを信頼してくれる知人といえば、二人の我が子だけ。そんな私が保険なんて商品を売れるのか?でも不思議なことに不安はありません。そんなことを考えている余裕がなかった。嵐でも吹雪でも休まなかった新聞配達を全うできたんだし、この仕事もきっとできる。信じるのみ。バカ正直にまっすぐ進むのが中野初美なのです。
スタートは見込客ゼロから。
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知人がいない土地で新規のお客様を見つけることは至難の業です。そんな私は、オフィスにストックされている古い顧客リストを頼りにするしかありませんでした。その顧客リストとは、かつて所属していた社員が契約したお客さまで、その後担当社員が退職し、フォローが手薄になってしまっていて、決してホットとは言えない顧客ばかり。お客さまにとっては見ず知らずの私ですが、だからこそ丁寧に後任のご挨拶をして回ったのです。商品の売り文句なんかどうでもよくて、お客さまの考えを聴く力を身につけていきました。
詰め込んだのは知識より行動。
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会社の勉強会には片っ端から出席して、商品知識を学びました。営業の何たるかを知るために自己啓発本や、成功のためのビジネス本なんてのも読んだりもしました。で、実践でやってみるとちゃんと成果が出る。コツはとにかくお客さまの話すことの聞き役に徹すること。本当にそれだけで営業成績が出せたんです。ゴリゴリと売らんかなのセールスをやるんじゃなく、誠意が大事なんだと知りました。すごい超大口の太客を見つけた!なんてことはありません。凡事徹底というのは本当ですね。
磨くのはセールストークより心配り。
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営業というのは自分が得をすることじゃなくて、相手の気持ちになって、お客さまがいかにメリットを享受できるのかを真剣に考える仕事なんだとわかってきました。困った時にすぐに手を差し伸べてあげられる提案ができるようにしておきたい。そのことばかりを意識して行動していたら、会社で言われていた目標をクリアできるようになりました。そして人としても成長できた気がします。始めの頃は私も、売り方ばかりを考えていた時期もあります。でもそれより、自分のキャラのままやったほうが成果が出る。不思議。
そして再びの離婚も事実。
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私は仕事も、家事も、子育ても、手抜きをしてきたつもりはありません。ぜんぶ誠意をもって臨んできたつもりです。おかげで家庭は円満に見えました。そして私の営業成績もこの頃になるともうワンランク上がって、うまくいっていました。でも、神様は私をなまけさせてはくれませんね。優しかったはずの夫がだんだん…(続く)
1999、無心の生保デビュー。
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こうして私は第一生命保険で営業レディとしてのキャリアをスタートさせることになったのです。とはいえ、ほぼ縁もゆかりもない愛知県ですから、営業を持ちかけるような親類縁者はいません。コネはゼロ。私のことを信頼してくれる知人といえば、二人の我が子だけ。そんな私が保険なんて商品を売れるのか?でも不思議なことに不安はありません。そんなことを考えている余裕がなかった。嵐でも吹雪でも休まなかった新聞配達を全うできたんだし、この仕事もきっとできる。信じるのみ。バカ正直にまっすぐ進むのが中野初美なのです。
Profile.
中野初美
Introduction of Hatsune Nakano
- Age
- ⚪︎歳
- Educational
- ⚪︎⚪︎⚪︎大学卒業
- Job
- 保険関連
- Address
- 愛知県名古屋市
- Hobby
- 映画鑑賞・散歩